サフィニア邸で休日を

さふぃと中の人の支援とこれから

彼我

お疲れ様です!

 

国語だかの授業にて、

「会話で他者と意思疎通が出来ない悩み」

「思いの通じない他者の存在」というテーマが出てきました。

 

コミュニケーションとは、言語によるものと、

そうでないものがありますが、

言葉って何?といったとき、

自分の心の中にあるものを、他人に伝えられるように、

意味を託した記号であるということができます。

しかし、この言葉というもの、数に限りがありまして、

特に具体的なモノを指す名詞でない限りは、

イメージと100%合致する意味の、数学で言う「必要十分の」言葉は

ほとんどあり得ないといっても過言ではありません。

だから、というわけではないのですが、

性格とか内心とか、そういうものを

言葉で説明するのも非常に難しいし、

一つの言葉に対しても普通に幾通りもの解釈がありうる。

だから言葉はキャッチボールとは言いますが

一つ投げられた言葉に対して相手が何を受け取るか、は

ほとんど賭けのようなものです。

それを補うために状況;文脈だとか、相手の表情や身振りだとか、

そうしたものが言語の意味論を超えた豊富な意思情報を

表示し、受け手もそれを最大限キャッチするように出来ているのが

普段のコミュニケーションだと私は考えます。

 

そうした最も豊富な情報量を有するコミュニケーションですら、

不確かなものをいくつも重ね合わせて、

言語的にはとても曖昧なものを掴み取ろうとするものなのに、

その方法で個人個人のなかにある「真実」が

伝えられる、掴み取れる確証なんて、あるはずがないのです。

だとすると、究極、誰か他の人の性格や心情、人格といった

内面を、言語的に理解し把握することは不可能である、

と言わざるを得ないでしょう。

ただし、前回の投稿で述べた通り、

その「他の人」当人は自分のことを言語的に理解しているのか

というと、無意識の自分まで含めた完全な自分の人格理解には

及んでいないと思われます。

そうすると他人である私たちからすると、

隣の誰か「他の人」が何するものか、わからなかったとしても

何ら不思議のことではないわけですね。

 

宿敵のことを「不倶戴天」などと言いますが、

空とまでは言わなくても同じ空間を共有することだけで

相手の何かをわかったような気になってしまうものです。

じっさいそのこと自体は間違いではないと思います。

でも究極どこまで分かった気になっても、

言葉を重ねても、体を重ねても、

相手の真実は(自分のことでさえも)扉の向こう、みたいなものなのかなと。

誰かと一緒にいる、ということは、

常にその不明と秘密に直面することであるので、

その脅威に対して安心と平静は強く揺さぶられるでしょう。

そしてそれを乗り越えていくから、

つながりは絆になっていくんだろうな・・・などと思う今日この頃でした。

 

 

まあそんな「誰かと一緒」を目指す支援の道であるから

どこまでいっても「未知」であるところの相手のことは

尊重しなくて何が支援か、ということなんですけどね。

分かっているようで何も少しも簡単ではありませんでした。

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自我

お疲れ様です!

 

いきなり冬がやってきましたね!

ここのところ雨が続いてからこの温度の急変続き、

何だか季節の変わり目しかない気がします。

 

 

さてタイトルの自我となると何とも重いテーマですが

「自分って何だろう」と思って振り返ったとき

「自分というエヴァ(巨大ロボット)に乗ってるパイロットとしてのボク」を

想像しました。

 ※ロボじゃなくてエヴァにしたのはロボ以上に謎めいているからです

自分には「意識」としてコントロールできる部分と、

「無意識」として極めてコントロールの難しい部分があって、

<自分というエヴァ>は「無意識」。自分はおろか、

医師とか臨床心理士とか、整復師とかプロにとっても

解き明かせないブラックボックス満載のナニカ。

これが丸ごと「私の体」をなしていると思うのですね。

自分が「意識」として持っている、考えているこの私は、

その大きなブラックボックスに対しては、

<パイロットとしてのボク>程度のものでしかない。

 

そのパイロットが「何が戦っているんだろう・・・エヴァ?ボク?」と

問うわけです。

しかし私には「自分ってよく分からないものだと思うよ」と

思えてなりません。だから他人との付き合いと同じかそれ以上に、

「自分との付き合い」というのも必要なんじゃないかなと思うのです。

自分に甘える人は体を壊したりして身を持ち崩しますし

自分に厳しすぎる人は心を壊して自壊します。

何とかーたまたまー自分とうまくやっている人もいるようですが

この点実に様々だなと思いますね。

 

自分で自分のことがよく分からないというのは

一方で無責任なようにも感じます。とりわけ、いい年した

大人になってまで自分の考えや行動に責任が取れないなんて、

と考えるのは特に妥当です。至極正当な意見ですね。

でも私が特に「よく分からない」と言っているのは、

無意識に湧き上がる欲求や、とっさに起こる感情、といった

「考えや行動」「責任」といった理性的な側面にない部分の事柄なのです。

 

この本能的な側面にある自分は、皮肉にも無意識のうちに、

理性に主導権を渡し(た振りをして)、その姿を隠していきます。

それが素直に顔を出しているのは子供の頃だけで

その頃に対話がうまく行かない人にとって

「無意識の自分」は本当にわけの分からないものです。

意外に子供っぽいとかすぐキレるとか

ウラでは甘えん坊とか、全部そういうことなんじゃないかなと思いますね。

自分をうまくコントロールするとか、

自分を認めるって、そういう無意識の自分までひっくるめて

うまーく受け止めてやることなんだと思います。

 

 

 

さて、小難しい話をしましたが

PS4をついにポチってみました。参戦けってーい★

ただし画面のほうの調達にえらい時間がかかるらしく

12月半ばからになるようです。残念。

でもやっぱり新しいタイトルへ道が開けてくると

わくわくしますね!

以降の展開に期待全開です。

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上空

お疲れ様です!

お腹がすきました・・・

 

日本のサクラダ・ファミリアと揶揄される駅の近くに

滅多に行かないオフィスがあるのですが

地上50mに届こうかという空を目線の高さに眺めながら

ぼんやり仕事するのもなかなか壮観ですねー。

(どう見ても仕事していない)

 

 

この前後輩と仕事の話をしていて

「子供は自分で自分をコントロールできない」という

話をしました。

私が思うに「子供は」というのは

対象を分かりやすくしただけに過ぎず

実際は「人間は自分をコントロールできるほど理性的ではない」と

思うのです。感情の「動物」であると。

だから、理性的には、これをやることがまずいとわかっていながら

自分で止められないということは往々にしてあるはずです。

これを極端に、犯罪のようなシーンで想像すると

ピンとこない話なのですが、たとえば、

寝なくてはならないのに眠れないというようなこと、

食べちゃダメな時間につい食べちゃうこと、

様々な「まぁいいか」の場面で考えると

頭では良くないと分かっているから「まぁ」なわけで

その後からやってきた半端な判断は何なのかということに

なりませんか?

私は分かりやすく言えば「理性」と「本能」に

自分は分かれていると思います。

この理性が「意識」、私は本能を「無意識」と呼んでいて

人間の本能は感情的な判断を下すことがあり

それを意識できない形で意識に伝え、干渉してきて、

意識がそれに従わされることさえある。

理性も本能も人格ではありますが、

とかく「意識」の面では、成人するまでは不安定な状態にあると

私は考えます。だから中学生といっても

自らの判断が論理的に妥当かどうかという判断も

つかないしつけない、ついていても、

無意識が下す判断のほうに従ってしまうことがある

ということなのです。

 

だから大人が悪いことをしたのと

同じ目線で子供に怒りをぶつけるのは

間違いであると思えてなりません。

「やる気がない」のも額面どおり、外面の通りで

受け取ってしまうと子供の未来を奪うのではないか、と思います。

頭でやる気があるのなら、全力でそれをすくわなくてはいけない。

 

とはいえ、大人になりつつある人のことなので、

甘えさせてばかりもダメっちゃダメなんですけどね・・・。

行動の責任とか、失敗や挫折を伴いつつ学んでいく時機でも

あると思うとその付き合い方についても

考えるところが多い今日この頃です。

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回帰

お疲れ様です!

 

このほど福岡に里帰りもしてきました。

とはいえ、何だか東京に里心もついてきたような気も。

自分の中で「いつもの場所」が東京になりつつあるようです。

まあ関東には教え子がいっぱいいますしね!

 

紅い風のリズさんと狩りに行くことがもっぱらですが

回復弾の勘は取り戻してきたように感じます。

何か違和感がするので使ってこなかった

ライトボウガンの狩り技ですが

最近これを使うようになって「これは便利!!」と思うようになりました。

わけても、「全弾装填」。これ。

全ての弾について、撃つまでは切り替えようと納銃しようと

装填状態のままにしてくれるというもので、

攻撃していて装填が少し遅れたからといっても、

攻撃の途中で即座に回復に切り替えることが出来るので、

あまり気を張って回復に待機をしていなくてもよく、

それは回復率を保持しているという前提の下で考えると、

攻撃率の担保に繋がります。

回復待機のために攻撃率を犠牲にする必要がなくなるのです。

 

 

それにつけても被弾から装填への流れなどは

あまりこれという理屈に従うものでもないのかなと思います。

勘働きというか、理屈が頭に入っていて、

それが体に染み付いて、無意識が動きを援けてくれる。

だから当てずっぽうは良くないこととはいえ、

「勘」の働きとはなかなか馬鹿にならないものです。

そしてそれは、日々更新される意識からのフィードバックにより、

意識が意識できないうちに変容していきます。

だから技術としてこれを扱うとき、

私もかなり多くのことをここに述べてはきましたが、

それ以上に、回復弾を長く多く触っておき、

その感触を自ら知っておく、理屈だけでなく、

体がそれを知っていることで、無意識はよりよく、

意識であるこれを読むあなたを助けてくれるはずなのです。

 

 

そんな回復弾の勘が戻ってきたことは私にとって

蓋し幸いなことで。

で、この前のコメントにもありました旦那のお知らせにより

かなりの数のメンバーが村に戻ってくることになったというので

これはますます楽しみでもありますね。

友人の勧めによりゴーストリコンのようなのにも

手を出してみようかなーと思いながら

冬のボーナスでのPS4入手を狙うのでした。

ぜひぜひその折は皆様よろしくお願いしますっ。

 

 

ところで正直村に関して

紅い風のリズさんが「私もメンバーに入っていいのかしら??」と

言っていたのです。

「何がそれを妨げることがあるだろうか!」と思うのですけど

私ともどもよろしくお願いしたいところです。

改めてご挨拶しますのでそのときもお願いしますー。

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再度

お疲れ様です!

 

この前面白いことがありまして。

野良ってやっぱりやってみるもんだなあと思いましたね。

 

たまたまジンオウガ獰猛化連戦部屋にお邪魔したときのこと

三人目の方がヘビィボウガンを背負って入室、

いくつか戦闘を繰り返すうち、不自然な回復をしていることに

気づきます。

野良でも粉塵を飲む人はあまり珍しくありませんが

かなり久々に回復弾での回復を受け

かなり意外な思いでした。「おお、いるんだ・・・」と思います。

すごいのは近くで被弾したら装填、遠くで被弾したら攻撃続行と

行動の軸がしっかり定まっており、

回復の速度、精度、頻度ともに

何度もプレイしながら「意識高いなあ・・・」とつぶやいておりました。

 

さらに驚いたのは拙ブログをご存知の方で

「昔ガンナーのブログされてました?」と聞かれたんですね。

ドスでもご一緒したことがあるとのことなのですが

色々惜しいと思いました。

今もしてますよ!って言おうかと思いましたが

ご覧の通り今も昔も大したことは書いていませんので(^^;

 

そしてそれ以上に、何よりDSのチャットって

環境としては物足りないの一言に尽きるなと思いました。

今なら携帯からのチャットもかなり優れています。

LINEでもいいしスカイプでもいいし、何かしらチャンネルが一致すれば

声でも文字でも繋がれる世界です。

だからこそゲームハードでのサポートはそこまで手厚くもないのでしょうが

それにしてもさびしいものだなあ・・・と思います。

ワールドはその辺どうなるんでしょうね。

人数を集めることはできるんでしょうか。

人と人とをつなぐ場にはなれるんでしょうか。

 

今後も回復弾の使い手を自認する限り

こうしたつながりをしっかり持って生きたいなあと思う限りです。

 

最後に、素敵な夜をありがとうございました。

お達者で、との言葉を頂きましたので

元気にこれからも回復弾を撃って行きたいと思います!

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意識

お疲れ様です!

秋刀魚のおいしい季節ですね。

 

Youtubeさんで草野球のおじさんが役立つ練習の仕方や

アツい野球への思いを語る、なんてチャンネルを

見ることがあるのですが・・・

「意識、意識、意識が無意識になる」

この言葉は印象的でした。

 

当方野球と関係あるブログではありませんのでね(笑

でも意識が無意識になっていく、という考え方は大賛成です。

 

そもそも意識が人間の能力のどれだけを支配していると

いえるだろうか、と考えたとき、数値化は難しいことなのかも

知れないけれど、私は全体の能力の半分も

意識だけでコントロールするのは難しいと思っています。

たとえるなら、iPhoneなどのスマートフォン端末とか、

パソコンとか、とにかくこのブログを見ることが出来る機械って、

実は私たちが操作できる部分の計算以外に、

自動で本当に様々なことを計算して実行しています。

それでいて、何をしているかということは私たちには見えていないというのが

みそというか。それも私たちと同じことです。

人間ドックに行けばわかるような血圧の数値とか

心拍数、健康状態、興奮状態(心理の体に相関している部分)、

こうしたことは全て、マスクデータであり、

普段私たちが普通に生活している上でそれを「見る」ことはできません。

血圧や心拍数が上がることにより、いつもと違う感覚に陥るかもしれません。

心身の変調により、たとえば頭痛をきたすかもしれません。

そうした感覚は体から意識への訴えであり、

逆に意識から痛みへアクセスすることは出来ませんし、

感覚も意識だけで変えることは出来ません。

私たちの体は無意識が制御していることが多く

それゆえに意識的な行動も無意識の助けを借りなければ

円滑に行えないことがほとんどなのです。

 

たとえば、グラスを手にとってお茶を飲むことが目的で

グラスに手を伸ばすとします。

このとき、意図的に意識しているのは何でしょう。

グラスの位置くらいではないでしょうか。

手の角度は肘の開きで何度?指の開きは尺側の筋肉緊張何パーセント?

握る強さは筋力の何パーセント?口への軌道をグラスが描くのに

必要な各関節の旋回速度は?

これらをプログラムで入力すると、いかに生体の動きが

複雑であるかわかりますが、ともかくこれを全て意図し、

注意深くグラスを口に運ぶ人はほぼいないと思います。

意識はグラスを口につけることを想像しさえすればよいのです。

そのとき、経験された動きを元に最適な動きを計算した無意識が

行動を補助することによって意識に係る計算の負担を軽減するのです。

 

所作だけでなく、思考にとっても無意識は欠かせません。

意識が想起した情報と、視床下部に蓄えられた情報を結びつけるのは、

脳の機能ではありますが思い出せるか思い出せないかは

意識の範疇ではないので無意識がこれを司るものと思われます。

また、「ひらめく」とよく表現されるものは、

意識がたどり着かなかった思考を無意識が補ったと考えることが出来ます。

 

人間の行動も思考も、意識というクライアントと、無意識という巨大なサーバー、

この二つのコンピューターから成り立っていると考えて問題ないと思います。

 

ゆえに、勉強でも、考えることが得意になるかどうか、

特定の方面の問題に対して解決が出来るようになるかどうかは、

無意識がその思考過程に馴致され、無意識が考えることが

出来るようになっているかどうかがかなり重要です。

体の動きが何度も何度も行っていれば「体が覚える」のと

同じ要領で、「無意識に教え込む」ことは可能です。

無意識を意識的に操作することはかなり難しいですが、

無意識だって学習します。意識はそこに働きかけることは可能なのです。

 

支援の場でも、「これはこの状況だから・・・」とその場で考えているようでは

時機に合った策を時機に合わせて行うことは難しいです。

味方の被弾や敵の怒りに対しては反射的に動いていなくてはいけませんし、

行動しながらも次のことに対して考えを巡らせていなければならないとすれば

意識の仕事はその舵取りだけにとどめておかなくては、

情報量が多すぎて処理落ちを起こしてしまうのです。

逆の言い方をすれば、一つ一つをその場で考えている段階から、

考えなくても体が動く状態まで高めていくことで、

臨機応変、当意即妙といえる状態に自分を進めることが出来、

スピードも飛躍的に上がっていくということなのです。

 

トライやXXで支援がいきなり難しいのは、まずそれが理由です。

ある意味誰よりも経験を積んでいないと、しっかりした支援は難しい。

でも私には無意識に味方をチェックする特技があるから、

まず人よりは反応が早いのではないか・・・と思う。

 

まあ勉強も一緒。ほんとに一緒。

「△ADCと△BCDにおいて」という書き出しをする理由を

その場で考えているようでは身についていない。

「なんかそうしないと気持ちが悪い」というところに至り

やっと無意識の助けを借り、一歩先に進んだといえるのではないか。

それまでどうすればいいのかというと、

ひたすら意識して反復しかない。

 

じゃあ支援歩法は。これも一緒。

ひたすら反復しかない。

これも、勉強がゲームと一緒だと思う理由の一つです。

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憧憬

お疲れ様です!

 

 

すごい人はすごいなあ、と思いますねー。

授業もそうだし狩りもそうなんですが、

自分が何かをして生じた結果としての状況に対し、

「ああ、これはこうすればよかったかも」ということに「気づく」こと、

それはある程度普通の感覚だと思うのですね。

でも瞬時に自分がするであろうことに対し

その先の結果を見通し「あ、だめだなこれ 変えようか」と思うこと、

もしくは「だからこうしよう」という明らかな見通しの下で行動すること、

一言で言えば「こうすればいいんだ」ということが「わかる」こと、

これはやっぱり円熟の域に達しなければ

見えてこないことだと思います。

うぬぼれも含むかもしれませんが

生徒の前に立つことに関して、その経験期間だけは長いので

「だいたい先生の振る舞い」は出来るんですが、

その先のことになると、やはり自分はまだまだだなと思います。

でも、希望があります。

それは「他人のすごさがわかる」ということです。

 

回復弾の師Babyfaceの回復弾の撃ち方は

他に類を見ないもので私にとってはかなり衝撃でした。

同輩や後輩が出来たことで

起き上がりに重ねてきたりすることが増えはしたのですが

それでも師匠以上のものは見ません。

私が回復弾について人に認められる程度に成長することが

出来たとすれば、その要因として「人に見て学べるだけの目があった」ことは

大事なことだったんじゃないかなと思います。

 

人に見て学ぶことは本当にためになります。

でも、見るだけで学ぶためには自分にも素養が必要です。

じゃなければ前で問題を解いているだけで授業は成り立ちます。

見て「すごいな」と思うことは、

それだけで自分もその「すごさ」の一端をもっているということです。

今出来ないということに悲観する必要はありません。

 

そういうわけで、今は出来ませんけど希望を持っていってきます(苦笑。

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支援

お疲れ様です!

 

相変わらず学習支援業にまい進する毎日ですが・・・

「支援」の道は人生で報われるぞという話の直後でなんですが

以前も上げたように

キャンプキーパーになっているハンターに

どうやってレウス以上の敵を倒せというか?

今度はキャンプから寄生しようとしているどころか

剥ぎ取りにも来ないような状況で、

でも彼らには強力なアイテムを与え、

来るであろうラオシャンロン戦に挑ませなくてはいけない。

ラオシャンロンとの戦いに赴くであろうことは

確定しているのに、彼らときたら、ゲームもまともにしたことが

ないようなのです。だからゲームに面白みも感じていない。

 

これはかなり困ったことなんですよね。

ラオシャンロンに挑む理由は?となると

究極「皆がそうしているから」という、日本的な、あまりに日本的な話になってしまい

彼ら自身にとっての理由にはなりえないでしょう。

ていうか、それ人に与えられるものなの?

彼らにとっての理由は、どうあれ彼らが自分で得るほか、ない。

その上で彼らが剥ぎ取りだけでも来ようとしなければ

数字のついたエリアでの振舞いなんて語りようもないのです。

 

 

そうして彼らのせいにするのは簡単なのですが

こうした態度の生徒に行き当たるたび、

自分が教育者として成績を上げるプロでありながら

いかに生徒に甘えているのかを痛烈に突きつけられ

学習を彼らのためと思ってその支援の輩でありながら

いかに曖昧な気持ちでその業務に就いているかを思い知ります。

 

 でも本当にラオシャンロンが倒せないことが、

 ゲームをしていないことが、彼らの人生にとってマイナスになる?

 やる気のないことをやって褒められる体験が、彼らのためになる?

その躊躇いは常に私の脳裏に付きまといます。

しかし、その判断は、やはり、皆がやっている通り、

一通りのことをやりきってこその判断になるはずなのですね。

私がやりきる側の人間でなくては、誰がそっちに導くのか。

 

お金を頂いているから鞭でしばいてでも成果を求めるのは教育ではない。

それは業務であっても仕事ではない。

クリアは出来ても楽しくないゲームに正義はない。

 

だからやっぱり、彼らの意欲がなくては、仕事に魂は入らない・・・!

 

じゃあ彼らの意欲を殺いでいるのは何なのか。

ぼやきもよく聞きます。部活がなくなって欲しい。

市の大会があって忙しい。学校の課題。

とかく、彼らは忙しいです。それだけだろうか。

がんばるってのはキツイです。自分の何かを確実に犠牲にします。

逆に言えば、ゲームをするのに時間を「費やす」というのは、

その時間で出来たことをゲームにまわす、

さまざまな選択が出来る中でゲームを選んだということなのですが、

同じことを、勉強に対してするには、

やはり相当の理由が必要だし、

学校行事や学校、塾に行くことなど、

勉強と同じようなことを散々、半ば強制的に選ばされた挙句に

自ら自習を選べる子はかなり強靭な精神の持ち主のはずです。

 

そうすると、絶対にがんばっている子を一人にしてはならない。

一方で、精神的に負けてしまった子は

どうするんだろう・・・そのせいでキャンプキーパーになってしまった子に

フィールドでの支援策は意味がないのでは・・・

究極部屋からキックアウトのほうがそのハンターのためだったりするのですが

一度乗りかかった船にその選択は苦しいですよねえ。。

だとしたら酒場でのフォローになるのが話としては自然ですが

そんな時間もないんだよなあ(涙

 

 

そんな感じの堂々巡りで

授業の力もそんなにあるわけでなく

おかげでフィールドで夢を見させる支援手にはなれていないのですが

それでもこのフィールドで皆で笑いたいなあ・・・!

今日もがんばってきたいと思います。

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間隔

お疲れ様です!

 

 

何とか記事数を稼がねば!ということで、ちょっと業務にも余裕があるので

ここで一筆(なんというサボり)。

 

その業務って何ぞやですけど、

こんなとこでリアルが誰かを言ってもしかたないので

わからないように一言だけ「今、埼玉がアツいんです」。

 

 

その大きなクエがやっとこひと段落しそうで、

一ヶ月って長かったなあと思いながら、

来月もその余韻なのか残渣なのか、日曜出勤になりましたが

まあともかく余裕が出来るのです。開放感と高揚感ったらないですね。

 

 

こんなときは誰かに回復弾を撃つに限るぜー、なんですが

ちょっと他のゲームを思い出してみたりして。

アーマードコアって、そのゲーム性の中心が

かなりハードコアなアクションゲームであることを除けば、

とても私の好みなんですよね。

メカのカスタマイズってわくわくしませんか。

しかも、あのゲームのよいところとして、

カスタマイズしながら強いアセンを目指していくというよりは、

自分に合うアセンを見つけその戦術を実現し研磨していく過程にこそ

プレイヤーとしての上達を見ることが出来る、という点があります。

もちろん最適解の候補はあります。モンハンと同じですね。

しかしそれを破る方法があります。

だから一つ一つのパーツとその性格、見た目の歪曲、あるいは均整、

機体としての均衡、調和、それが美として立ち現れてくるのです。

アセンブリの面に重きを置いたシステムとして

フォーミュラフロントなどもありますので

どうだろうな、遅咲きのPSPをもう一度・・・などと考えてしまいます。

 

 

昔から三国志シリーズが好きでした。

引越しに伴いゲームが出来そうな媒体が

パソコンしかなくなってしまったので

13はパソコンでプレイしたのですが、戦場をマウスで操作することが

多いのでこれはパソコンで購入したことは蓋し正解だったかなと

思いました。昔たまたま安く買い叩いた6もそうでした。

こっちちゃんとやり切れないまま放り出してしまいましたが・・・

でもPS4を見るとメタルギアVがなんかちょっと面白そうだったんですよねー

銃持ってドンパチも一つくらいは持っておきたいですし、

さらにはVRでエースコンバット。これはアツい。

 

 

楽しい気分のときに見回せば楽しそうなものは

それなりにいっぱいあるものですね。

しかしそれはきちんと仕事を通して幸せな毎日を担保できてこそ。

サボっといてなんですが

今日もがんばっていきましょー、ということで

ゲームを思い出しながら本当に何でもない話でした。

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杵柄

お疲れ様です!

 

お疲れ様です。。

忙しい。というか面白い!

 

勉強って何か?と考えたときに、

私が考えてきた義務教育の学習事項というのは

「人生をかけた壮大なゲーム」ということに尽きます。

小さい頃はただただ「面白い」ということでだけ突き進んできました。

義務教育の学科が全て古典科学に立脚していて

現代科学に照らして考えたときに、嘘ではないまでも

今ではそれに代わる考え方を習得しなければ

卒業論文の一つも書けないという状態ですが、

それは私にとって何か問題ではありませんでした。

しかし、現実的には、これに没頭して究極したとしても、

これがそのまま未来に役立つわけではない。

 

現代の子供たちにしてみても、

やっていることは変わらないと思うのです。

「これが何の役に立つ?」と思うのは当然です。

そのまま伝えるわけではありませんが、

実情としては「あるゲームのスコアが社会的地位を決定する」

という状態なわけです。

なので彼らには、テクニックを習得し、ゲームをクリアしてもらわなくてはならない。

やる気がある子もいる。効率が欲しい子もいる。カッコよく問題を解きたい、なんて

変わった子もたまにはいます。

まるで、ハンターのバリエーションのよう。

 

しかし学科や問題もただで死んではくれませんで、

こっちが一撃で死ぬような(=問題一読でやる気をそがれるような)難易度の

ものもあります。さながら最初のリオレウスのような。

それに対する生徒の反応もさまざまです。

しかし、一様にそうした難しい相手を前に、

一度ならず挫折や失敗を味わうものですよね。

そうしたときに、周りでこれを支援する大人の反応はどうあるべきか?

 

心の傷を癒す、励ましや慰めが必要かもしれない。

解決の糸口を示し、勇気を奮い起こすことが必要かもしれない。

隣で解いて見せ、自分にも出来ると思わせることかもしれない。

一緒に考え、隣にいることで気持ちを保つことかもしれない。

 

まるで、

回復弾かもしれない。

麻痺弾かもしれない。

支援攻撃かもしれない。

一緒にクエに出ることかもしれない。

と同じことです。

 

前から自覚的にそう考えてもいましたが、

自分のしていたことがこんなにも「支援」なんだなと思うと、

何だか人生が報われるような思いがしてしまいます。大げさでしょうか。

 

だから忙しくて時間も取れないのですが

子供たちのそばに立つのは、不謹慎かなと思いつつ

楽しくて仕方ありません。

期限のあることで達成には速度を求められますし

自分の好き勝手にはもちろん行きません、が

仲間たちに最大の敬意を払いつつ

私は今日もお仕事に赴きます。

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